2024年上半期をめどに、日本の紙幣が一新されることがきまりました。
福沢諭吉が描かれた1万円札は、先の紙幣一新の時にも変更されなかったこともあり、既に馴染みのある顔になっていますが、それがこの度、40年ぶりに人物が刷新されます。
1万円札の新たな顔は「渋沢栄一」と、名前を聞いてもどなた?と思った人もたくさんいるのではないでしょうか。
教科書などでもあまり取り上げられていないため、よく知られていない人物ですが、実は、「日本資本主義の父」と言われるほど近代日本の確立に多大な功績を残した方なのです。
今回は、渋沢栄一とはどのような人物で、どんな功績を残し、私たちがいかにその恩恵を享受しているのか、について詳しくお伝えします。
目次
渋沢栄一は明治から昭和の初めにかけて、日本の産業界をリードした実業家です。
彼が設立に関わった企業は500にも上る。
その数の多さもさることながら、第一国立銀行(現みずほ銀行)や、王子製紙(現王子ホールディングス)、東京海上保険(現東京海上日動火災)といった今も続く、日本を代表する大手企業の設立に関わった点も大いに注目される点です。
渋沢栄一はどのような人生を歩み、このような偉大な功績を遺すに至ったのでしょうか。
渋沢栄一は1840年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
幼い頃から家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、教育熱心な父より学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」を学びました。
この論語の学びは、後の渋沢の人格形成に大きな影響を与えます。
幕末の騒乱期に少年期を送った渋沢は、政治に関心を持ち始め、次第に尊王攘夷思想を抱くようになりました。
倒幕計画を練ったこともありましたが、縁あって一橋徳川家に仕官することになり、行動が180度転換しましたが、これも渋沢を実業家に導いた大きな転換点の1つになりました。
24歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、当時の最先端の経済に触れて多くの刺激を受けました。
最も感銘を受けたのが、第一に実業の思想、第二に官尊民卑のないこと、第三に合本主義です。
この時の感銘が渋沢の「私利を追わず公益を図る」との考えに大きな影響を与え、また彼は生涯に渡りこの考えを貫き通したのです。
ヨーロッパ巡業中に大政奉還を迎えた渋沢は、明治政府の命により急ぎ帰国し、静岡で「組織だったビジネス」を開始しました。
それは、ヨーロッパで学んだ経済理論を参考に、日本文化の特性を加味して定着できるように変化を加えたもので、銀行と商社を混ぜ合わせた組織で「商法会所」と呼びました。
この商法会所の設立は、記念すべき日本で最初の合本(株式)組織の誕生でもあります。
このような輝かしい成果を上げたことにより、渋沢は明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
大蔵官僚として手腕を発揮し、財政改革・金融改革に取り組みました。
3年半に及ぶ官僚生活において、
・江戸時代から続く「大福帳」を廃し「複式簿記」を導入
・全国の測量の実施
・租税制度が米及び物納となっているのを金納にかえる
・度量衝の統一
・駅伝法制定(運輸・通信)
・鉄道の敷設案
・政府間でバラバラな諸規則の統一
等々を立て続けに実施し、明治初期の税制、貨幣などの国家財政の基盤の確立を行ないました。
1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、渋沢は民間人として経済活動を始めました。
渋沢の経営の基盤になっているのは、ヨーロッパ巡業中に感銘を受けた実業家のあり方、合本主義です。
合本主義という「私利を追わず公益を図る」という道徳に基づいた経営を良しとした渋沢は、同時代に活躍した実業家の一人で三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の利益追求を第一とし、完全なトップダウンの会社を運営した経営スタイルとは全く異なるものでした。
このように相反する経営スタイルの二人の実業家が同じ時代にいたからこそ、日本の資本主義は急速に発展したのかも知れません。
まず最初に、日本最初の銀行となる第一国立銀行(後の”第一銀行”、現在の”みずほ銀行”) を設立し、頭取として産業の育成に力を注ぎました。
また、東京商工会議所や東京証券取引所の前身を設立。さらに、三井銀行、王子製紙、日本赤十字社、帝国ホテル、帝国劇場、日本郵船、石川島播磨重工、東京ガス、東京電力、キリンビール、東京海上、東洋紡績など、約500社におよぶ多種多様の企業の設立に関わり、その発展に貢献しました。
「私利を追わず公益を図る」考えを貫き通した渋沢は渋沢財閥を作ることはしませんでした。彼が設立に関わった企業の多くが、100年たった今日まで続いているのは、公益性を説いた渋沢の功績によるものと言えるでしょう。
渋沢が資本主義の発展に大きく寄与した一つに実業家の地位向上も挙げられます。
士農工商という身分制度によって体制が支えられていた江戸時代では、商売=実業は下等な活動と捉えられていました。
一方、ヨーロッパでは利益を追求することは卑しいこととはされず、商人が政治家や官僚と対等に競い合える社会を築いていました。
ヨーロッパ巡業を通じ、そのような世界が存在することを知った渋沢は、商いを卑しいものとする日本の精神的な地盤を覆し、商人とは国家を裕福にする実業家であると位置づけました。
その時に効力を発揮したのが、論語です。
また、同じくヨーロッパ巡業で感銘を受けた合本主義により、私利私欲のためではなく他社利益を第一に図ってこそ、円滑な経済活動が可能になると唱える渋沢に、そんな甘い考えでは経済発展は立ちいかないとの反論も起こりました。
それに対しても、論語の「仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」という孔子の言葉を引き合いに出し、「むしろ他者利益を第一としてこそ、やがて自分も永続的な利益を得られる」と考えました。
この道徳は、経済活動において自己中心的であることを戒めるものであって、自己利益の追求それ自体を戒めるものでは決してありませんでした。
実業家と並行して教育における功績も大きく、渋沢は多くの教育機関を立ち上げています。
中でも力を入れたのが「商業高校」と「女子教育」です。
当時、経済界で力を伸ばしていた財閥などは、エリートの教育機関を重視していました。
しかし渋沢は、商業教育を重要と考え、それにより経営者やミドルマネジメントのような“実際に企業やビジネスを動かせる人”を増やしたいと考えていました。
具体的には、簿記や英語といった実学の重要性を説いています。
明治時代では高等教育を受けられるのは在学該当年齢人口の1%にも満たない、非常に限られたエリートの特権でした。
参照:文部科学省
こうした特権を享受できた人の中でも、財閥が東京大学や慶應大学などといういわゆる一流大学を重視していたのに対して、商業教育に力を入れた一橋大学や東京経済大学などの設立に協力しました。
それは一部のエリートが活躍して経済界を盛り上げるのではなく、経営者や企業が必要とする戦力を日本にもっと増やし、日本の経済や国力の底上げを図りたかったからではないでしょうか。
渋沢は、27校に及ぶ私立女学校への援助も行いました。
有名なところでは、日本女子大学校(現・日本女子大学)や東京女学館の設立に関わっています。
女性も等しく教養を身に付けることで、家庭教育のレベルが上がり、それが敷いては日本全体の国力や経済レベルの底上げに繋がると考えました。
現在のダイバーシティや女性の活躍を目的にしたのとは異なりますが、結果的に彼のこの活動は女性の社会進出を大きく後押しすることに繋がり、彼が残した輝かしい業績の一つと言うことができるでしょう。
渋沢栄一は官僚として、実業家として、教育者として、近代日本の資本主義を発展するために多大な功績を残しました。
ありとあらゆる分野で多大な功績を残した渋沢ですが、なぜこれほどの活動をできたのでしょうか。
彼が残した言葉に、『一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処世上の第一要件である。』というものがあります。
渋沢にとっては、まさに「公益性を追求し、国力と経済を底上げすること」が天の使命=ミッションであり、そのミッションの遂行を常に楽しんでいたことでしょう。
「日本資本主義の父」渋沢栄一が印刷された新1万円札を手にする日が今から楽しみです。
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