こんにちは。ミッション・ミッケ人生デザイン研究所 研究員の澤田りよです。
今回は弊研究所代表の高衣のコーチングメールでお届けした「期待と裏切りシリーズ」を、ブログ記事としてまとめてお届けします。
『期待』とは、どのようなものでしょうか。期待と言うと仰々しく聞こえるかもしれませんが、実は私たちは日常的に期待をしたりされたり、裏切ったり裏切られた(と感じたり)しています。
例えば、天気が良い日にお布団を干すと、夜お布団に入った時に太陽の香りがして嬉しくなります。それが、全く期待していなかった時に起こった場合、ー例えば自分が知らないところでパートナーが干してくれていたりするとー、その嬉しさはなおさらです。逆に、そのような太陽の香りを期待していた時に、それがないと、がっかりします。
また、今は、甲子園で出身地の高校が活躍する(勝つ)ことを期待している、これも、期待です。
さて、この二つの期待は同じでしょうか。
期待には2種類あります。
1.相手がこうしてくれるだろうと、『自分が何かを得る』ことにベクトルが向いている場合
2.相手の活躍を期待するなど、『相手が何かを得る』ことにベクトルが向いている場合
です。
お布団の場合は前者で、甲子園の場合は後者です。
では、裏切られた、と感じる時は、どのような時でしょうか。
前者では、「布団が太陽の香りがすると思っていたのにしなかった」、そして「がっかり」となります。一方、後者では、「勝つと思っていたのに勝たなかった」となり、これも「がっかり」になります。
自分にベクトルが向いている期待の時も、相手にベクトルが向いている時も、得られないと「がっかり」に帰結します。ということは、相手にベクトルが向いていると思っていたのに、実は、自分が何かを得るために期待していた、ということになります。
これは、オリンピック選手が金メダルを取ることを期待している、留学した子がしっかり学んで立派になって帰ってくることを期待している、新人歌手が売れっ子歌手になることを期待している、などの場合も同じです。
これらは、相手に対して「頑張ってね」という意味合いも込めて「期待」している、と私たちは思っていますが、実はこれらも、多かれ少なかれ「自分が何かを得るため」にしている期待です。
期待している、イコール、相手にベクトルが向いている(相手のため)、では必ずしもないのです。
純粋に応援したいなら、期待せずに「応援だけ」することが可能です。そこに「期待」が入るということは、自分が期待した結果をその人が出すことによって、自分も何かを得られるため、無意識に、それを自分が得ることを期待していることが多いです。
親が子供に期待する、ということも、まさにこの典型例です。子供のために期待していると思っているけれども、実は、子供がそうなることで自分が満足感を得られることを期待しています。それが得られないから「がっかり」します。期待通りに行った時の「喜び」を自分が得られると期待していたから、得られない時にがっかりするのです。
ということは、期待通りに行って喜ぶ場合も、相手にとって良い結果になったから相手のために喜んでいると思いきや、その喜びを得るという恩恵を自分が享受していることになります。
もっとストレートに言うと、相手のために相手の成功なり達成なりを期待している、と思っていても、『それによって自分が受けることができる喜び』を期待している、ことになります。全てがそうではありませんが、そうなっている場合がとても多いです。
相手を応援しているはずが、いつしか自分自身が受ける喜びに焦点が当たり、それを期待している。これは、応援されている側にも伝わっています。これを察知した相手は、いつしか「自分に期待してくれている人たちを喜ばす」ために頑張るようになります。
そうなると、「期待に応えられなかったらどうしよう。がっかりさせることになる。」と期待のプレッシャーに苛まれることになります。
『自分が金メダルという栄誉を勝ち取る』と言う目標に向けて、「自分のために」頑張っていたはずだったのに、いつしか、「応援してくれている日本のファンの皆さんに喜んでもらうために」頑張っている状態になります。
そして、世界で一番美しく演技をするんだ、世界の人を自分の演技で魅了するんだ、という、一番最初に持った「自分が成し遂げたいこと」を忘れ、それに向かっていく時に味わうことができたはずの「充実感」や「自分の人生を生きている感」がなくなっていきます。
そうなると、練習している時の「プロセスで味わうことのできる楽しさ」はもちろん、やる気が一気に失せ、鬱のような状態になってしまい、挙句の果てがスランプに陥る、ということになってしまいます。
「期待に応える」ことに心が奪われている状態の時、自分でした選択なのに、それを楽しむことができなくなります。文字通り、心が「他人」に奪われている、何かに取り憑かれた状態と同じで、形相が変わってきます。やつれたような状態になってしまうことが多いです。
『自分の人生を生きているのか、他人の人生を生きているのか』という、悩みに苛まれるかもしれません。それは、何をするか、
何をしていくのか、というDo(行動)で決まるのではなく、そのDoをする際に、どこに心の焦点、意識の焦点があるのか、つまりBe(状態)で決まります。
金メダルを目指すのは、何故なのか? 自分が目指したいから。それが、自分の人生を生きている人のBeです。それがいつしか、「日本国民のため」になってしまうと、国民の期待を「裏切らないこと」が目標になり、やっていることは変わらなくても、他人の人生を生きていることになってしまいます。
自分の人生を取り戻した人が、表情が変わるのは、他人に乗っ取られていた『心』を自分のところに取り戻すからです。それは、とても大きな違いになります。
私たちは日常生活のふとしたところで、いろんなことを期待しています。
そして、期待には
1.『自分が何かを得る』ことにベクトルが向いている場合
2.『相手が何かを得る』ことにベクトルが向いている場合
の2種類があります。
2.の『相手が何かを得ること』にベクトルが向いている期待だと思っていても、実は、自分のために期待している、という場合が少なくありません。
そして、一見すると相手にベクトルが向いているように見える期待だけれども、実は自分にベクトルが向いている期待は、相手にもその意図がしっかりと伝わっています。その結果、相手に他人の(あなたの)価値観に生きる人生を強いることになります。
「期待」一つをとっても、自分の価値観を押し付けていないか、を今一度、振り返ってみると、相手を生き生きとさせ、人間関係でこれまでに経験したことのない領域に行けるかもしれません。ぜひ、相手を生かす期待をしていただければと思います。
ONは仕事、OFFは投資 ダブルで一生稼げる私になる 人生マネジメント塾主宰、人生デザインアカデミー協会認定講師。輸出入代行・海外展開コンサル事業コマビズ代表。
「今まで培ってきて知識を活かし、人々の経済的自立を支援する」というミッションのもと、東京と大阪の2都市を中心に活動している。
趣味はマラソンと登山。お酒も好きで大衆酒場からバーまで、どこでも馴染める。